6.古代山陽道 大山駅「推測」

大山峠には古代山陽道駅家(うまや)「大山駅」が置かれていたと言われる。「大山駅の」所在地は定かでないが大山は古くから知られてきた名前である。明治19年駅逓の改革により上瀬野驛に設立された運送会社は人夫94人、人力社2.荷車62.籠2を有していた。このとき海田市「千葉家」まで西は運んだ。

江戸時代の「西条四日市」として山陽道最大の宿場町として「四日市・今の西條は栄えた。浅野藩直営:「お茶屋と称された」古文書によると

1.土地の広さ488

2.部屋数 29 3.畳の数 214畳半

A.豊臣秀吉は、天正15年≪1587≫3月15日島津征伐のため九州に下るとき、旦過寺に宿泊したと言われる。三原から安芸四日市まで八里とある。B.文禄元年(1592)4月10日朝鮮出兵のため名護屋へ下向するとき宿泊。御園生村江熊の見性院で毛利秀元と対面。

2.江戸時代寛永十年(1633)幕府巡見使の巡察が行われたのに伴い、広島藩の道路整備は画期的に整備がすすめられ、道幅も二間半≪4.5m≫に定められ宿駅として海田市の発展が始まった。江戸時代は宿駅は、西条・海田。広島駅だった。

 

3.山陽鉄道は明治27年6月完成後本郷・西条・瀬野・海田。広島駅の5驛だった。翌年八本松にも駅ができた。昔は、大山境峠を東に下り、賀茂郡宗吉村飯田村境まで瀬野村の山であったが、いつの時代か寺家村の飛郷ができ、宗吉村になり峠五丁西より梨の木谷尻,下馬所の間古水抜きのところが郡境となった。しかし、和名抄、延喜式、によると大山郷、大山駅が賀茂郡にあるところからして、ここらあたりの郡境は絶えず変動があったことが察せられる。「大山峠」はこの大山の北側旧街道に沿ってあり標高337mの難所である。峠には樹齢約300年に及ぶ松の大木があり、江戸時代大名の休憩所であった「憩い亭」の屋敷跡が残っている。村人は旅人にわらじや入り豆を売っていたという。昭和58年の説明版によれば「日本書紀応神天皇の条に出る西の道は後の山陽道の事だと言われ、この峠道は弥生時代からすでにあったと思われる。その後山陽道は,京(京都)と大宰府を結ぶ官道となり、この付近に延喜式でいう駅家『うまや』という「大山駅が」おかれた。そしてこの道は明治17年(1884)に国道二号線が新設されるまで国の幹線道路としての役目を果たした。