西国街道「いにしへの山陽道からいまの道まで」

古代律令国家は大化の改新に【645】際し、五畿七道(山城、大和,

河内,和泉、摂津)。(東海,東山、北陸、山陰、山陽、南海,西海の七道)

を造った。古代の山陽道は畿内と九州大宰府を結ぶ『大宰府官道』と呼ばれ最も重視された「大路」であった。

また、安芸の国には(真良(しんら)、梨葉(なしば)、都宇(つう)、鹿附(かむつき)、木綿(ゆう)、大山(おおやま)、荒山(あらやま)

安芸(あき)、伴部(とも)、大町(おおまち)、種箆(へら)、濃唹(のお)、遠管(おくだ)」の13駅があり、大山驛は八本松町宗吉に、荒山駅は安芸区中野に在ったとされる。「駅路」は、一般庶民が利用できる道ではなく、緊急時の衛士の移動や、都と諸国府との間の公的な連絡や外交使節の往来に限定されていた。

中世の山陽道は、平安時代、平安京に(京都)に領主の多くが住み、消費都市として全国から年貢物や特産物が集中して発展する都となり、律令体制の崩壊と共に陸上中心の交通、駅家駅馬の削減など負担軽減が図られたが駅制は急速に廃れ、都への物資輸送や山陽道の国司赴任に海上の利用も認められ瀬戸内海の水運が主流となっていく。

元寇(文永の役1274年)以降は、鎌倉と九州を結ぶ通信、交通が必要となり博多まで駅制が延長され、鎌倉時代は京と鎌倉を結ぶ東海道が重視されたが、室町時代にかけて海運、水運はますます発展しこの発達から山陽道も瀬戸内海側よりになった。

戦国時代は,伝馬制度が確立し、古代律令体制の「駅路」が復活した。

 

江戸幕府は幕府直轄の五街道(東街道、中山道、甲州道、日光道,奥州道)と脇街道を整備した。山陽道は脇街道とされたがっ寛永10年(1633)幕府巡使が西国に派遣されるのを機に参勤交代路として沿道には松並木を植え、一里塚を設置した。大山峠を越えて大山の「凉木」(すずむぎ)、下瀬野の落合に一里塚を築き、茶屋が「上瀬野一貫田」に設けられた。道路幅員二間(4.5m)への拡張、橋や宿駅が整備された。

一方、1)道路は河港道路修築規則が(明治6年(1873)8月に制定され1.東海道、中山道全国幹線道路1等道路 2.脇往還、枝道を二等道路 3.村、市の道路を三等道路として大蔵省番外達で制定され、

  2)国道、県道、里道に区分され更に道路を三等級に区分した。

(明治9年(1876)6月:太政官達60号)

  a。一等国道は、東京から各開港場に達するもの

  b。二等国道は東京から伊勢宗廟及び各府、各鎮台にたするもの

 c。三等国道は東京から各県庁に達するもの、各鎮守府、各鎮台を連絡するものに区分した。

  3)明治18年(1885)2月に太政官布第6号「国道表」で現一般国道2号線は東京より長崎港に達する路線番号4の一部に含まれていた。東京、、、、神戸、、、兵庫、岡山、神辺、今津、尾道、三原、本郷、四日市、海田、広島、廿日市、玖波、岩国、小郡、赤間関等が4号線の一部となっていた。

道路幅一等は7間(12,6m)。

 3-1)路線番号1号は(国道1号線は)東京都中央区から

横浜に達する道路

3-2)路線番号2号は東京(日本橋)より大阪市北区梅田新道交差点に至る

3-2)路線番号3号線は東京(日本橋)より神戸港に達する路線

4)大正9年(1920)4月1日内務省告示第8号

 「主務大臣が国道として認定した路線」路線番号 2

区間:東京市より鹿児島県庁所在地に達する路線。『甲』

経過地:岡山市、福山市、安芸郡海田町、広島市〈仁保町、的場町、

紙屋町,左官町、観音町経由)小郡町、下関市。を一般国道2号線。

5)昭和27年(1952)12月4日(政令第 477号)

路線名: 2.

起点:大阪市(梅田新道交差点) 終点:門司市(老松公園交差点)

主な経過地:尼崎市、、、、、岡山市、倉敷市、福山市、尾道市、西条町、

安芸郡海田町、広島市、岩国市、徳山市、山口市、小郡町、下関市

延長:671.1km。(全国4位)現道:596kmで、旧山陽道(近世山陽道、西国街道)を前身とする路線で、大阪から旧山陽道をほぼ踏襲し、本州と九州の間を関門トンネルで結び、関門トンネル門司側出口から程なく老松公園交差点で終点となる。

 

街道は古代より「歩行」を基本とする道であり、今も残る山道がおおく中国地方は街道という豊かな歴史が多く残されている。が江戸時代は「参勤交代路」としての「西国街道と呼ばれる」脇道ではあったが日本の幹線道路で毛利藩の有馬喜壮太が書いた「行程記」、江戸末期の頼杏坪さんたちがまとめた「芸藩通志」にも記述がある。その後明治18年【1885】6月1日道路は旧山陽道(大山峠越えの道)とは関係なく国道2号線が瀬野川沿いに新設、昭和31年(1956)10月1日供用開始され大正、昭和と「現在の2号線は日本の大動脈として西日本と東日本を結ぶ大幹線として日本の物流面で多大な経済効果を生み今日も日本の大動脈として脈々と生きている。

一方、明治27年【1894】に山陽鉄道が広島に伸びこの「鉄道が」交通の主役になり、地域の拠点は「鉄道の駅」となった。山陽本線の電化は昭和37年【1962】4月に完成、新幹線は昭和50年【1957】3月に博多まで開通した。